ART CAMP TANGO 2017 音のある芸術祭

21765500_1472082509550507_7047380237659542205_o《「ART CAMP TANGO 2017 音のある芸術祭」に行って。
今年の夏と秋の始まりにあった、音についてのこと。》

今年の夏のはじめに、「無響室」という部屋に入る体験をした。
「無響室」とは、音の反射が限りなくゼロになるように設計された部屋のことで、床、壁、天井全てに音を吸収するための構造を持った素材が使われている。
その部屋の中で発声すると、自分の声がひどくこもって、小さくなってしまったように聞こえる。自分の発した声が口を出て、そのまま壁に吸収されてしまうような感覚で、耳が悪くなってしまったような気分になる。
この体験をさせてもらったのは、大阪星翔高等学校。
工業技術系の学科を揃えているこの高校では、電子工学科に「無響室」があり、音や、それに関わる電子工学の実験、実習などにこの部屋が使用されている。
また、地元の中小企業が商品開発の実験のために部屋を借りに来ることもある、と聞いた。

 普段、私たちが発する声や音は、音が生まれた瞬間から空気の中を波紋のように広がって、空間にある様々な物体に反射して、進む向きを変えながら、伝わっていく。
だから、自分の声は、壁、天井、机、洋服、窓ガラス、コップ、周囲の人々、などさまざまなものに反射して自分のもとへ返ってくる。
そのため自分の声を十分に聞くことができるのだが、自分の元へ返ってくるはずの声が壁などに吸収されてしまうと、自分が発生した生の声しか聞こえない。
本来の音しか聞こえない「無響室」で数分を過ごして、外に出ると、ありとあらゆる音が大きく聞こえる。まるで自分に向かってくるかのように。
世の中にはこんなたくさんの雑音があったんだ。と驚く。
それは大げさな表現や間違いではなくて、ありとあらゆる音は幾多の物に反射し、自分の元へやってくることで聞くことができていることに気付かされる。

私たちは、「聞く」という動作一つでも、周囲の存在を利用している。何気なくある全てのものは、そんな意図はなくても「聞く」ことに役立ってくれているのだと思った。

9/24(日)に、「- ART CAMP TANGO -音のある芸術祭」に行ってきた。
月の兎で開催される音読ライブでよくご一緒する入江さんと、そしてその音読ライブの主催者である安藝さんのお二方に同行させていただいた。
最終日のクロージング・イベントに合わせ、多くの人が訪れていて、展覧会の会場の網野町の旧郷小学校から始まり、久美浜の東稲葉家では和船復刻の公開制作を見たり、稲葉本家と久美浜公園ではクロージング・パフォーマンスを見学した。

音については全く専門外なので、一つ一つの作品については言葉にできないのだが、クロージング・イベント全体を通して「共鳴」という言葉が浮かんだ。
外で吹く風と連動した風を室内に作り出す構造を取り入れた作品や、電車の通過と連動して踏切の警告音が鳴るオルガン、庭園で踊るダンサーとダンサーの動き、壺の中で鳴るスピーカー、石同士が響きあう音、海や山の自然の中で奏でられる音。その土地の過去と現在の時間。
物理用語としての「共鳴」とは意味が異なるかもしれないが、「存在と存在の間を移動する何か」、「お互いが作用しあって浮かび上がる何か」に接したアーティストの方々が表現されたものに立ち会うことができ、自分と作品との間の「共鳴」についても考えた。

音の「共鳴」と「反射」を特に感じたのが、最後の久美浜公園でのクロージングパフォーマンス「午後5時53分まで」だった。
日没間近の海まで、稲葉本家から、参加者みんなで歩いた。
久美浜公園の海辺の芝生の向こうには、ダンサーの宮北裕美さん、木村玲奈さんが、ワンピースを纏って舞っていた。
鈴木昭男さん、荒木優光さん、山崎昭典さんたちの奏でる音が、海や山、草、人、空、夕日、いろいろなものに反射し、中に入ってきた。
虫が勝手に鳴いていて、太陽はみるみるうちに山の向こうに沈んでいって、海の音はあまり聞こえなかったけれど、風の音が気持ちよくて、足元の芝生の下はみずみずしい土を感じて、草木の匂いもあって、そんな全てと音が反射していたように思う。
共鳴し合う音が、あらゆる自然や環境と反射して、こうしてそれを体に入れることができる。普段全く考えないことに行き着いた感じがして、いつまでも続いて欲しいなと思って、
とても心地の良い時間だった。

共鳴した音は本来の音とは変わったり、反射した音は立ち位置によって聞こえ方が変わったりする。
土地や時間、人や物、ありとあらゆるものと音との関係もそれに近いのかもしれないし、(遠いのかもしれない。)

9/24は音楽にあまり馴染みない私にとっては初めてと言っていいくらい音と芸術、自然について感じたり考えたりした貴重な日だった。
久美浜では、あれだけ手に取るように自分にとって新しい何かを掴んでいたのに、その場所から離れれば、離れるほど、それがわからなくなってしまう。そういうものだと思う。

だからなるべくその日のうちに、と思って文章を書いた。
けれどこの文章も、あの時(午後5時50分くらい)に感じていたものそのものではもうなくなってきてしまっている。

きっと眠ったら、この感覚もなくなるんだろうな。

それがもったいない気がしてなりません。

百合野美沙子

2017-09-24 | Posted in BlogNo Comments »